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(モ783とモ754 黒野 1998.12.28)
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名鉄揖斐線は、峡北軽便鉄道が開業した路線を、後に美濃電気軌道が延長した路線です。美濃電グループの他の路線と同様、車輌も車窓も施設も、あらゆる面で魅力的な路線でした。 揖斐線は岐阜市内線の終点である忠節から、本揖斐までの路線です。
でも末期には、谷汲線が分かれる黒野を境に、二分された運行でした。そして使用車輌も、ご覧の通り全く異なっていました。
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(モ782 忠節 1998.12.28)
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忠節から黒野までは、日中でも15分間隔で電車が走り、岐阜市内線を経由して新岐阜まで直通していました。主力のモ770形と780形は市内線に乗り入れるので路面電車タイプでしたが、高性能の新しい車輌で、高速で快走していました。
乗客の多くは新岐阜へ向かうので、急行も運転されていたのも特徴です。
写真のモ780形は前年に4輌新製されたばかりの最新の車輌で、この年に登場した3輌を加え、7輌ありました。連結して3輌編成で走ることもできました。
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(モ754とモ783 黒野 1998.12.28)
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(モ770+モ771 黒野 1998.12.29)
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モ770形は市内線直通用として、1987年に2編成が登場した連接車で、その後2編成が追加されました。
塗装は当初、名鉄スカーレット一色でしたが、モ780形の登場で、同様のカラフルな色に変更されました。
左が旧塗装、右が新塗装です。
新塗装も、なかなかよく似合っていました。
忠節から市内線に入ると車に囲まれ、別の車輌かと思うほど低速運転となりました。
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(モ776+モ777 1998.12.29)
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(モ754 黒野 1998.12.28)
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黒野から本揖斐までは一変して、谷汲線と同様にモ750形の単行運転でした。
名鉄としてはむろん、新岐阜から本揖斐や谷汲まで直通運転をしたかったわけですが、電圧降下がひどく最新車輌が入線できなかったのだそうです。
運転間隔も谷汲線と同じで、1時間に1本でした。そのため、黒野で乗り換えの際には長時間待たされることもしばしばでした。
時間のかかる市内線を通った上、ここでかなり待たされるのでは、乗客は他の交通機関へと逸走します。
揖斐線は谷汲線と違って平地を走り、周辺人口も多く、終点の本揖斐は近鉄養老線の揖斐よりはるかに市街地の中心に近い好立地でした。でも所要時間がかかりすぎ、乗客は減り続けました。
資金力のある大手私鉄なのですから、変電所を増設して、直通運転をするべきだったと思います。
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(本揖斐 1998.12.28)
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本揖斐の駅舎は、美濃電らしい個性的な建物でした。
ホームには立派な屋根も付いていました。
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(モ754 本揖斐 1998.12.28)
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(モ512+モ513とモ755 黒野 1998.12.28)
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黒野には小さな車庫があり、魅力的な電車が留置されていました。モ750形は3輌あり、揖斐線と谷汲線で各1輌を使用し、他の1輌が予備でした。
市内線直通用はモ770形と780形でしたが予備がなく、1926年製のモ510形が健在で、検査などの時は代走していました。
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(モ514 黒野 1998.12.28)
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(モ514 黒野 1998.12.28)
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モ510形は5輌が製造され、この当時はまだ3輌が在籍していました。
人気は絶大で、鉄道模型ばかりかプラレールまで発売されました。
このプラレールはモ510形の特徴をよくつかんでいた製品で、スタイルが良く、何とリベットまで表現されていました。
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(モ513 黒野 1998.12.28)
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(ト14+ト15 黒野 1998.12.28)
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車庫のあった黒野には、保線用の車輌もいました。
左はホーム裏にいた、バラスト輸送用の無蓋貨車。写真ではわかりにくいのですが、車体に「谷汲 揖斐線専用」と書かれています。
右は軽トラックを改造したもの。模型でも簡単に作れそうなので、レイアウトに置いてみたい気がします。
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(黒野 1998.12.28)
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(モ754 本揖斐 1998.12.28)
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これらの写真を撮影した1998年は、忠節から黒野までの近代化が完了した年でした。ピカピカの新車が急行運転している姿からは、揖斐線の明るい将来が感じられたものです。
でも両端部がそれに伴わず、利便性の向上は限定的でした。
趣味人としてはもちろん、そこが揖斐線の魅力だったのですが。
本揖斐で静かに発車時刻を待つモ754を眺めていると、時間が経つのを忘れてしまいそうでした。
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