銚子電気鉄道1976 前ページへ 実物鉄道へ

 前ページに記した銚子電気鉄道に初めて乗車した日は、小学校5年生の夏でした。家族で犬吠埼のホテルに泊まったのですが、銚子でデハ301に乗り換えた時は既に夕暮れで、写真は撮れませんでした。
 翌日、宿の方にお願いして外川まで車で送ってもらい、デハ201に乗車しました。
 左写真は、銚子に到着した直後の様子です。
 オヘソライトの横には「銚子行」と手書きの方向板が下がり、屋根にビューゲルが載っている姿はいかにも田舎電車です。片側3カ所の客用ドアーは何と手動で、駅に着くたびに車掌さんが開閉していました。
 このデハ201、当時の私はてっきりありふれた半鋼製車だと思っていたのですが、後に実物誌で、木造車に鉄板を張っただけの、いわゆるニセスチール車だと知って驚いた記憶があります。
 なお、当時の車体色は、旧西部色の落ち着いたツートンカラーでした。
 外川で撮影した、デハ201の運転席。
 ご覧の通り、マスコンとブレーキハンドル、圧力計しかありません。
 前夜に乗車したデハ301も同様で、スピードメーターすら無い簡素な運転席には驚かされました。その横には、タブレットと手ブレーキがありました。
 右写真に写っている客用ドアーは、手動なので取っ手が付いています。

 なお、現在は運転席付近での写真撮影は禁止されています。


 電車は外川を発車すると、激しく揺れながらゆっくり走ります。
 当時の最高速度は時速30km。銚子まで、21分かかりました。
 架線は直吊式。線路脇には簡素な架線柱が立ち並びます。
 笠上黒生で列車交換するのは現在と同じ。対向車は昨日乗ったデハ301でした。
 ちなみにデハ301は元・鶴見臨港の買収国電で、半鋼製車。ドアーは自動でした。

 電車はやがて、本社と車庫のある仲ノ町へ到着します。
 車庫は木造。壁面の「支え棒」が、いかにも地方私鉄です。
 機回し線にはハフ1形客車がいます。
 仲ノ町は当時から工場内の駅という感じでした。構内や周辺の雰囲気は、現在もあまり変わっていません。
 線路状態は悪く、ご覧の通り枕木は土に埋もれ、バラストはほとんど見えませんでした。
 

 仲ノ町の車庫前には、上田丸子電鉄から来たデハ501と、もう1輌のハフ1形客車がいました。
 デハ501は当時唯一のパンタグラフ搭載車。でも小型なのに電気を喰うということで、通常は朝ラッシュ時のみの使用でした。
 2輌在籍していたハフ1形客車も朝ラッシュ時等の増結用ですが、当時既に珍しくなっていた2軸客車でした。
 ちなみに当時の朝ラッシュ時は、在籍車輌全てを動員し、デハ201+デハ101(トレーラー代用)+デハ501の3連と、デキ3+ハフ1+ハフ2+デハ301という2つの編成をつくり、通勤通学客を輸送していました。むろん総括制御などできませんから、運転士も2名ずつ乗車していました。
 

 仲ノ町駅構内の向こうには、ヤマサ醤油工場の側線がありました。
 工場直結の貨物ホームに面した積み込み線に、機回し線が付いていました。
 貨車を牽引していたのはデハ101。唯一の電気機関車デキ3は非力で、空車の返送と入替くらいにしか使えなかったのです。
 この側線は現存しませんが、線路が無くなった以外は現在もほぼ当時のままです。

 仲ノ町駅の銚子寄りの側線に留置されていた、架線検査用の事業用車。と言っても、トロッコの上にやぐらを組んだだけの代物です。
 自走はできませんから、作業の時はどうやって移動したのでしょうか。デハが牽いたのか、それともデキ3が牽いたのか。
 前ページの通り、現在はデハ301がこの任に就いています。
 

 ヤマサ醤油の工場には、銚子電鉄経由の他に、国鉄線から直接敷かれた貨物線もありました。写真の左側に写っている線路がそれです。
 この写真の奥には、右側へ分かれる線路も写っています。これは銚子港近くの新生貨物駅に向かう貨物線でした。
 更に奥には、銚子駅の跨線橋がかすかに写っています。

 国鉄の113系に乗り換えた後、窓から写した写真。
 国鉄ホームの突端に割り込む形で銚子電鉄の線路がある状況は、現在と同じです。
 でも今は、JRとのホームの境界に、一応屋根が付きました。
 写真中央に貨車が写っているところも、現在との相違点です。貨車の姿が消えた今の銚子駅は、広い構内がなんだかガランとして、寂れた感じがします。
 
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