小湊鐵道1976 前ページへ 実物鉄道へ 表紙へ

(キハ200 1976)


 以前、雑誌で「小湊鐵道沿線の人は羨ましい。昔の風景が、いつまでも変わらず残っているから…」という趣旨の記事を呼んだことがあります。
 まさにその通り。私は小湊鐵道に乗るたびに、遠い昔の少年時代に戻ることができるのです。
 このページの写真は全て、私が小学生だった1976年に撮影した物です。でも左写真のキハ200形は、今と何ら変わっていません。
 厳密には、さすがに若干の変化はあります。半自動ドアーが自動化され、座席のモケットがブルーからオレンジ色になり、209と210以外はバス用クーラーも付きました。それでも車体の外観は現在と同じです。客用ドアーのノブが無くなりましたが、この写真では写っていません。
 エンジンも相変わらず、DMH17Cのまま。トルコンもTC2です。鉄道部で整備を担当なさっている社員の方は、「50年前と、基本的には変わっていないんですよ」とおっしゃっていました。
 

(キハ200形3連 里見 1976)


 施設はさすがに多少は変わっています。
 左写真の里見駅は外側の側線1本と砂利山への貨物線が撤去され、一時期は無人化されていました。
 でも、沿線風景はあまり変わっていません。特に終点近くになると、右写真と同じ光景を今なお見ることができるのです。
 

(上総大久保付近 1976)

(キハ6101 五井 1976)


 当時の小湊鐵道には、奇怪な電車改造気動車が2形式在籍していました。
 現在も五井で保存されているキハ5800が有名ですが、左写真のキハ6100形も2輌が在籍していました。
 元は青梅鉄道のモハ100形で、国有化により省電となった車輌です。いわゆる買収国電で、戦後は電装解除されてクハ6100形となり、末期は実質サハニだったとのことです。
 小湊鐵道では当初、客車として購入する予定でしたが、結局DMH17B機関を付けた気動車として竣工しました。
 入線した1956年当時は国鉄気動車の払い下げが無い時期だったので、客車として使用する予定だったのでしょう。でも蒸機が全廃され、貨物の急減でDLの購入もなく、結局気動車化されたのではないでしょうか。
 

(キハ6101 五井 1976)


 キハ6101の車体中央部です。電車用の台車が、出自を物語っています。
 車内は木製でしたが、床以外はクリーム色に塗られていました。座席はロングシートで、当時病院の待合室などでよく見かけた、緑色のビニール張りでした。
 それまで主力だったキハ41000が非力で簡易連結器だったのに対し、機関出力が高く自連付きの本形式は機関車代用として、主に貨物輸送に使われていました。
 貨物輸送廃止後は、保線用にバラストを積んだ東武のトラを牽引していました。
 多客時にはむろん旅客を乗せるので、私も何度か乗車したことがあります。
 車体は本来、スカーレットに塗られていたようですが、この頃は退色が進んで、ご覧のように紫色になっていました。
 同型のキハ6100が廃車になった後も、6101は残り、1978年まで健在でした。
 数輌の無蓋車を牽引し、夕日を浴びて走り去るキハ6101の姿が、今でも脳裏に焼き付いています。

(キハ200形 養老渓谷付近 1976)


 以前、小湊鐵道の本社を訪ねた際、石川晋平社長が「テレビや雑誌によく取り上げていただけるのはいいんですが…何だか、古さばかりが強調されているようで…」と苦笑なさっていました。
 確かにそんな気もしますが、新しい物が良いとは限りません。公共交通機関として、あえて変えないことも必要な場合があることでしょう。
 例えば、JRから地方私鉄まで、業務の外注化が猛烈に進んでいます。でも小湊鐵道では、「自分たちでできることは、極力自分たちでやる」方針だそうです。
 車輌整備を下請けに任せて大事故を起こした地方私鉄もあるのですから、賢明な方針だと思います。

(キハ200形 養老渓谷付近 1976)


 普通の田舎、普通の踏切、そしてツートンカラーの気動車とタクシー。かつて高度成長期の日本では、どこでも見かけた、ありふれた光景です。
 それが今も、そのまま残っているのです。
 いつになっても変わらない故郷を持っている私は、やはり幸せです。
上へ 次へ
inserted by FC2 system