南部縦貫鉄道1996 実物鉄道へ

(キハ101 西千曳〜野辺地 1996.8.13)


 南部縦貫鉄道は、戦後新たに開通した、数少ない地方私鉄の一つです。
 東北本線と七戸町を結ぶ鉄道の計画は古くからあったものの、なかなか実現しませんでした。国策企業「むつ製鉄」の砂鉄輸送が計画されてから具体化し、観光開発への期待もあって建設されたのです。そのため、当初は京成電鉄も出資しています。
 貨物営業中心の鉄道になるはずだったので、開業時に用意された旅客車輌は、富士重工製レールバスのキハ101と102だけでした。
 その後、常総筑波鉄道から中古の気動車を購入してキハ103とし、やがて国鉄からのキハ10に置き換えました。
 でも、乗客の極端な減少と燃料消費の関係で、末期はレールバスしか走りませんでした。



 野辺地の近くでは、「日本最古の防雪林」のすぐ脇を走ります。巨木の並ぶ下では、小さなレールバスが更に小さく見えます。
 そしてここは昼間でも日が当たらず、薄暗い感じでした。

 野辺地駅の跨線橋は、南部縦貫鉄道のホームへ向かう部分が細くなっています。
 乗客が少ないので当然ですが、既にここから寂しい雰囲気が漂っていました。
 野辺地には一応、南部縦貫鉄道独自の駅本屋もあります。
 かなり大きな建物ですが痛みが目立ち、入口の駅名ははがれてしまっていました。
 防雪林の日陰で暗く、いつも閑散としていました。
 駅前はなんと未舗装のまま。
 ホームも未舗装で、古枕木を組んで土を盛っただけです。
 中間駅はさらに粗末でした。
 

(キハ101 野辺地 1996.8.13)


 本来の起点は千曳ですが、東北本線が別線で複線化された際、千曳駅が移転してしまいました。
 そこで旧千曳駅から旧線を借用して野辺地に延長したわけです。
 何もない千曳よりは、特急の止まる野辺地の方が接続駅としては便利になりました。
 この区間はレールが太く、乗り心地も違っていて、結構スピードを出していました。

(キハ101 野辺地 1996.8.13)


 レールバスは1962年の製造ですから、この時点で車齢は34年となります。標準的なバスの耐用年数の、2倍以上使ったわけです。
 さすがに車体は痛みが目立ちました。
 ドアは手動。積雪地だからとワンマン化もされず、車掌さんが乗っていました。

 終点の七戸駅は、本社も兼ねた細長い2階建ての駅舎でした。1962年の開通ですから、木造モルタル塗りの、平凡な建物です。
 駅前はこちらも未舗装で、角形の郵便ポストとガラス張りの電話ボックスが無ければ、開業当初と間違えそうな雰囲気です。
 七戸はそれなりに大きな町ですが、駅は町外れにあり、地元の人は自家用車か、町の中心部から出るバスを利用します。
 駅前にはスーパーがあるものの、他に商店街らしきものはなく、閑散としていました。
 時折見える人影は、マニアとタクシー運転手くらいでした。

(キハ101 七戸 1996.8.13)


 ホームは石組みの立派なものですが、2番線と3番線は当然使っていませんでした。
 レールバスの下回りは2軸で、板バネの簡素なものです。老朽化も著しく、線路状態の悪さも加わり、乗り心地はすさまじいものでした。ジョイントからの固い突き上げが、ドカンドカンと頭に響くのです。騒音もひどく、車内では会話も困難なほどでした。
 末期は時刻通りに走るのも難しくなり、しばしば遅延しました。この日も上り列車は、定刻より10分ほど遅れました。

(D451・DC251 七戸 1996.8.13)


 貨物営業廃止後、2輌のDLは失業してしまいました。
 D451は、開業時に新製したもの。貨物輸送中心の鉄道になるはずだったので、機関2台搭載の強力機です。
 DC251は予備機として、廃止された羽後交通から譲り受けたものです。
 右写真は除雪用モーターカーですが、鉄道車輌としての車籍があり、DB11という番号もありました。

(DB11 七戸 1996.8.13)


 当初の計画では、七戸から十和田市方面に延長される予定でした。実際、七戸駅は2面3線の線路配置でどう見ても中間駅でしたし、その先も数百mの線路が十和田市へと延びていました。
 でも、その線路は使われることなく雑草に埋もれ、電柱にまでツタがからまっている有様でした。
 上記の通りここは町外れで、静かな所でした。

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